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平成のおそ松くん [おそ松さん]

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●平成のおそ松くん

今期、大方の予想以上に大々的な(腐女子)人気を巻き起こしているアニメ『おそ松さん』だが、私的には現状の腐女子間でのブームに対してはまったく驚きでも意外でもなかった。だいたい

「目下の人気声優をかきあつめて演じさせるそろってイケボでファニーフェイスでそれぞれに個性的でおバカな兄弟たちが一つ屋根の下で暮らし始終じゃれ合いつるみあってはゆかいな仲間たちとお馬鹿な騒動を繰り広げる」

という設定の時点で、腐女子にとっては蟻の行列に砂糖を一袋ごとぶちまける、もしくは鴨の大群がそろって葱と割り下と七味と鍋とコンロと包丁とまな板を背負って突入してくる、どころではない所業なのだ。むしろこの事態や結果を逐一懇切説明されないと理解できない人々がいる、という事実のほうがよほど驚きであり理解に苦しむところだ。私など、このだいたいの企画や設定を知った時点で正直あまりにもあざとすぎて辟易というか、実食前からお腹いっぱい、あたかも芥川龍之介の小説『芋粥』での赤鼻の五位のような心境になってしまっていた。

というわけで、加えて80年代末期に放映の『おそ松くん』第二作アニメにリアルタイムで夢中になっていたという思い出、思い入れもあって、この『おそ松さん』の方の放送はむしろかなり醒めた気持ちで見守っていたのだが、果たして、あの問題の第一回において、制作陣はそうしたありふれた腐女子の予想や期待などとっくにお見通し、と言わんばかりに見せつけそれらをぶち壊した上で、しかもその上で期待以上に作り込んだ萌えとギャグをきっちり提供してみせる、という凄腕と精緻な戦略を見せつけたわけだ。実をいうと私があらためて感心し驚愕したのは、その制作陣がさまざまに工夫し考え抜いて新たに作り込んだ設定の中でも、例の六つ子以外のキャラクター、イヤミ、チビ太、デカパンやダヨーン、ハタ坊、等々が原作の原型のキャラをほとんど保ったままでまったく違和感なしに存在し、そして新たなストーリーや世界が成立しているというところであり、つくづく赤塚キャラの完成度の高さと魅力を思い知ったのだった(そして、それらが平成生まれの世代、それも十代そこいらの年代にもごく自然に受け入れられている!)。
もっとも、すでにご存じの通り、目下の『おそ松さん』人気の最大の理由は原作および第二作アニメ(1988年放映)の『おそ松くん』では影の薄くなってしまった本来の主役・おそ松以下の「六つ子」たちを、あえてそれぞれ細かくリアリティ溢れる等身大の共感が可能な青年たち、という性格付けをしたうえで全力で全面に押し出したことだが、私にはむしろあの六つ子たち、「おそ松」少年とそれ以外の兄弟たちにほとんどキャラクターの差違を付けようとしなかったところに作者・赤塚不二夫の発想の特異さ、的確さがあると思っている。彼ら六つ子の『おそ松くん』世界における唯一のアドバンテージというのはまさに(見分けの付かない)「六つ子」であること、それ自体のみであり、また、そうでなくてはならなかった。

本来『おそ松くん』の設定というのは、その「六つ子」であること以外はごく普通の健全な少年たちが、平凡だがまっとうな両親の庇護の元で個性豊かな仲間やけったいな大人たちと渡り合いながら面白おかしい日常を繰り広げる、という極めて王道の昭和少年ギャグマンガだったからだ。

もっとも、それらの中で特にイヤミ、チビ太がおそらく当初の作者の想定を超えた個性と牽引力をみるみる獲得し、作品世界そのものが先鋭化していくことで、世界の中心は彼らへと移り、六つ子たちはほどなく脇へと追いやられることになる。

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