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00ガンダム 劇場版について [00ガンダム]

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『OO』は対話で人は解り合えるのかっていう話が中心なんですが、第二期ラスト2までは、刹那のダブルオー空間で次々と人々が解り合ってめでたしめでたし感が一旦描かれ、だけどそこから最終回にかけて、結局ライルロックオンはアリーを撃ち殺すし、刹那とリボンズも殺し合うしかなかったよね、やっぱり解り合えないね、と最後にはひっくり返して「解り合えないエンド」で終わっていたのがTVシリーズでした(TVシリーズラストシーンでも、刹那とマリナ様は対話ができず(一方的に手紙が朗読されるだけ)、刹那の武力路線とマリナ様の平和路線は交わらなかった、という着地)。

 で、結論から言えば、劇場版ではそこからもう一度ひっくり返して「解り合えるエンド」に持ってきたという感じでした。異星人のエルスという、絶対解り合えそうもない相手に対して、最後には刹那のダブルオークアンタで、というかイオリアが計画していた、GNドライブ、イノベイター、ヴェーダの全てを使って「対話」を試み、そのまま対話により決着。対話不可能という雰囲気で戦争状況の中、種族が違ってしまった(普通の人間と本物のイノベイター)フェルトの想いが刹那に届き刹那復活、ソレスタルビーイング最後の戦いは「対話」のための出撃……という辺りは中々の燃え展開でした。

 全体的に、大きくて、かつ分かりやすかったです。フェルトが刹那を評して「愛が大きすぎる」みたいなことを言って、結局決定的な役目を果たしながらもどうもフェルト個人の愛は報われなかったらしい感じ。で、結局、大きい愛、ラブアンドピースノリで、武力よりもアートでっていうか、大きい花を表現して終戦させるんですが、うむ、色々と大きい。

 そこに限らず、アレルヤもマリーとの時間を終わりにして世界のために戦場に戻ってくるし、アンドレイは市民の平和という大きい志に殉じるし、沙慈もルイスを置いてこの局面で自分ができることをやりにいく辺りが、肯定的なニュアンスで描かれていた気がします。どちらかと言うと、個人の愛よりも大きい愛エンド。ラストシーンが顕著で、マリナ様も結局個人の愛は置いておいて国を優先しきった人生を送ったみたいなんだけど、最後に刹那が現れて、最後の最後ではTV版最終回からさらにひっくり返して刹那とマリナ様は解り合えましたエンド。先ほどラブアンドピースノリと書きましたが、刹那が自分の口でマリナ様の方が正しかったと言って、最後に字幕でどどんと(英語だったけど)平和は武力ではもたらされないみたいなことも書いちゃったんで、まあTVシリーズからずっとあった、武力路線(刹那担当)と対話路線(マリナ様担当)は、やっぱ対話路線っていうエンディングなのかなと。

 TVシリーズではむしろライルがアリーを撃ち殺した所と、結局ダブルオーはオー二つに分かれてリボンズと刹那が殺し合う形になった辺りに感銘を受けていた僕としてはそれでいいのか感も若干感じましたし、個人の愛より大きい愛を優先するって結構大変だよなとも思ったんですが、メッセージとしては文句の付けようがないし、刹那の虚無の源泉である砂漠の風景を、マリナ様が花を咲かせて守っていてくれた。対話で解り合うのには時間が必要……という辺りは良かったです。おそらくはダブルオー空間で(わりと簡単に)解り合っちゃったのとは別に、地道に普通のあり方で時間をかけて解り合ったのがラストシーンの刹那とマリナ様なんだろうと。おそらくエルスの母星に対話に行ってきた刹那が量子化(追記:エルス化?)しつつも帰ってきたシーンなのかなと解釈したんですが、マリナ様が目が見えなくなっている辺りも含めて、大切なもの(本当の相互理解)はフィルターに左右されない感があって良かった。ああ、あと今気付いたけど、一応本当の最後の最後に個人の愛も全うできた的なエンドなのかな。刹マリエンドだったのか!

 さらに、上記の若干感じた不満を吹き飛ばす要因として、これはマジでコーラサワーがいたのが良かった。TV版からして、対話しないですれ違い続けた他の面々に比べて、この人だけ対話中の対話の猛アプローチをしかけてマネキン大佐と結婚した作中解的な人なんですが、今回もこの人だけ、大きい愛がどうこうと言わず、小さい個人的な愛、マネキン大佐ラブを貫いてたら、なんだか世界も上手くいったという人だった。まさかの連続コーラサワーオチです。いや、マジで「幸せ過ぎて不死身じゃなくなっちゃいましたよ」みたいな死亡フラグを立てだしたと見せつつ、刹那にさりげなく助けられる辺りは良かった。これでコーラサワー死んじゃったら、大きい愛より個人的な愛を優先してはダメですみたいな偏った映画になる所でした。TVシリーズの「俯瞰と実感」のテーマも含め、沙慈が小さいミクロの現実から世界というマクロの現実にまで興味を持つ、関わっていく過程を是とも描いていた作品だったんですが、そういう方向とは逆の位置に、常にコーラサワーの正義があったのがOOのとても良い所。この人、劇場版にまで来て報告書読んでないからね。本当世界のマクロがどうこうとかどうでもいい。超マクロ視点だったイオリアの対照の位置にもいる人。個人的なミクロの実感としてマネキン大佐ラブをやっているだけなんだけど、対話自体には真摯。未だにコーラサワーだけ「大佐」と呼び続けるすれ違い感や、キス未遂などで本当は解り合えてないんじゃないか感を出しつつ、大事な局面でちゃんとマネキン大佐と対話による相互理解に達してる感がにじみ出てるのが良い(「死ぬなよ」のマネキンさんの一番のメッセージには、ちゃんと生き延びてアンサーを返している辺り)。どんなコーラサワー推しの劇場版感想という感じですが、本当コーラサワーがカッコいい劇場版でした。

 という訳で、大きい愛とか、人類間の相互不理解みたいな小さい現実から外宇宙進出へ……みたいな大きい話が描かれつつ、めちゃめちゃ小さいコーラサワーエンドでもあったと解釈しようかと思います。実際人類の未来のためという大きい愛に最後は殉じたグラハムはカッコいい所もっていった英雄ポジションですが、着実に自分に見える小さい範囲で頑張ってるコーラサワーも、別にそういう大きい話に殉じた人に劣らないだろうというのが個人的な実感でもあったのでした。

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